シルクロード・サテライトマップ(ベースマップ) C TRIC 1996〈写真1〉
 シルクロードは、中国の特産物である絹が、文字どおりその道を通 って西方世界に運ばれたことにちなんで、ドイツの地理学者リヒトホーフェン※1によって名付けられました。もちろん、東西を行き交ったのは絹だけでなく、人、物、宗教、芸術、工芸など、幅広い分野にわたるものであり、アジアとヨーロッパを結ぶ東西文明の架け橋でした。それは決して糸を引いたような一本の道ではなく、いくつかの幹線と支線からなる複雑な網目状の道で、そこには広大な砂漠や草原が横たわり、万年雪を頂く峻険な峰々が立ちはだかり、行き交う人に幾多の困難をもたらしました。

  シルクロードを大別すると、内陸アジアの砂漠・半砂漠地帯のオアシスを転々と経由していく「オアシスの道」、その北側に広がるユーラシア草原地帯を貫く「草原(ステップ)の道」、また、南シナ海からインド洋を経由してアラビア湾や紅海、地中海に至る「海の道」の三つのルートに分けられます。(写 真1)

パルミラ全景
 アレクサンドロス大王※2、チンギス・ハーン※3、玄奘三蔵※4、マルコポーロ※5、張騫※6などの王や僧や商人などがシルクロードを舞台に活躍しました。

  古代の日本は、アジア大陸との交流を通じてシルクロード沿いの国々から様々な文物を取り入れつつ、独自の文化を育んできました。日本文化の原点といわれる奈良は、このシルクロードの東の終着駅でもあります。奈良には正倉院宝物をはじめ現在も数多くシルクロード諸国に由来する文物が存在しています。例えば、薬師寺金堂本尊薬師如来坐像の台座にある葡萄唐草文は、シリア・パルミラの建築装飾(写 真2)にも用いられているなど、シルクロード諸国のいたる所でみることができます。

  現在、そうした歴史的・文化的背景を持つ奈良県は、シルクロードの歴史と文化の研究拠点として1985年に設立された「なら・シルクロード博記念国際交流財団」内にシルクロード学研究センターを設置し、異文化交流と相互理解の発展に貢献しています。
 1988年に開催された「なら・シルクロード博」への文物の出展を機に、奈良県とシリア・アラブ共和国との友好関係が育まれました。その縁により、シリア政府からパルミラ遺跡東南墓地の発掘調査の申し出があり、奈良県とシリア・アラブ共和国文化省考古総局が共同で行うことになりました。奈良県側は、(現)シルクロード学研究センターの樋口隆康所長を調査団長として奈良・シリアパルミラ遺跡学術調査団を編成しました。

  1990年にパルミラ遺跡東南墓地にて地下レーダを用いた探査(写真3)を行い、その成果 を基に1991年から1998年までA号墓と名付けた 家屋墓、C・F号墓と名付けた地下墓の共同発掘調査を行ってきました。さらに、1999年から2000年まで、発掘調査地の修復復元を行いました。

  この学術調査は、「なら・シルクロード博」で培われたシルクロード関係諸国との”縁“をより深めるとともに、世界に類を見ない数多くの文化遺産を有する奈良県が持つ文化財に関する調査及び保存・保護の豊富な経験と技術を活かした、地域サイドからの国際貢献でもありました。

ベル神殿の梁〈写 真2〉
地下レーダー探査〈写 真3〉

※1 「リヒトホーフェン」
1833〜1905 東アジア各地を踏査し、東西交通の歴史も調査して、「シナ」全5巻を著しました。敦煌や桜蘭を発見したスウエーデンの地理学者ヘディンの師でもあります。シルクロードのことは、その第1巻に記されています。
※2 「アレクサンドロス大王」
前356〜前323 前331にペルシアを征服後、東征を続け西北インドまで侵攻しました。それを機に東西文化の交流に努め、ギリシャ・エジプト・アジアにまたがる大帝国を作り上げました。
※3 「チンギス・ハーン(成吉思汗)」
?〜1227 本名テムジン。 卓抜な騎馬技術と戦略により、次々と他部族を征服し、1206年にモンゴル系・トルコ系の諸部族を統一してモンゴル帝国を形成しました。最大時には、ユーラシア大陸全土にわたって勢力が及びました。
※4 「玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)」
602〜664 唐の僧。単身で国外に出発し、西域の旅を経てインドのナーランダで研鑽を積みました。その後インド各地を巡り、教典・仏像を携え帰国しました。「西遊記」の三蔵法師は、玄奘の旅をモデルに描かれました。
※5 「マルコ=ポーロ」
1254〜1324 ベネチア出身。17才にしてアジアの旅に出発し、元朝中国でフビライ・ハンに仕えました。口述し記述された「世界の記述」(いわゆる東方見聞録)は、西欧人の東方への夢をそそりました。
※6 「張騫(ちょうけん)」
?〜前114 中国漢の時代、武帝の命により西方の大月氏国に派遣され、中央アジア及びそれ以西の事情が判明しました。これは、司馬遷の「史記」に描かれています。